スピードか、死か──昭和の看板と『首都高速トライアル』に見る、走り屋たちの光と影

「スピードか死か」──この言葉をご記憶だろうか。かつて山間部の県道や国道沿い、あるいは夜道の切り通しにひっそりと立っていた金属看板。赤黒のペンキで塗られた、その無骨な標語。主語も述語もあやふやで、ただ二者択一のように迫ってくる“スピードか、死か”。

設置者である交通安全協会やライオンズクラブの代弁をするならば、正確には「スピード落として安全運転か、それとも落とさず事故死か」という警告なのだが、そんな丁寧な言い回しでは、深夜の山中で心に突き刺さらない。

なにより簡潔で不気味で、なによりしなやかで文学上手な交通安全コゾーのこの標語。逸品だ。

今ではほとんど見かけることはない。まさに昭和の遺物だ。だが、それを見たことのある世代の脳裏には、あの文字が焼きついている──「スピードか死か」

同じように、「スピード」に命を懸けた男たちが映像の中にいた。バブルの余韻が色濃く残る1990年代初頭、VHSレンタルショップの一角にあった『首都高速トライアル』シリーズ──走り屋たちの青春が、あの時代の空気感とともに詰まっていた。

当時クルマに興味がなかった者ですら、このシリーズには惹きつけられる魔力があった。ボディに貼られたパーツ屋のステッカー、深夜の湾岸線、光の尾を引くテールランプ、そしてあのセリフ。

「俺と勝負したいなら、サーキットに来い!」(土屋圭市)

これでやられた。劇中に登場するのは、スポーツカーとドライバー、そしてパトカー──なのだが、不思議なことに、警察はシリーズ第1作にしか登場しない。以降の作品では完全に姿を消す。公道レースがテーマである以上、矛盾である。が、それこそがこのシリーズの“夢”だったのだろう。まるで『頭文字D』の世界が、取り締まりのない並行世界であるかのように。

なかでも印象深いのは第3作。公道レースで人を死なせた主人公がスランプに陥り、長野の峠に逃げ込む。その山中に突如として現れる土屋圭市(本人役)。GT-Rで走る彼の前に、事故車が横転し、負傷者が出る。

「京平、救急車!」
「はい!」

しかし、頼みの自動車電話は「圏外」。時は1991年。まだ電波は峠の木々を越えていなかった。
そこで土屋が叫ぶ。

「俺が行くぅ!けが人頼んだぞ!」

GT-Rで峠をドリフトしながら駆け下りる。どこに向かっているのか? なぜ自分で救急車を呼びに行くのか?いろいろとツッコミどころはある。だが、それでいい。昭和の看板と同じく、理屈を超えた破壊力が、そこにある。

ちなみに、当時の走り屋たちは非常時に備え、資格不要の「パーソナル無線」を搭載していたという。携帯電話もない時代、峠の上と下の連絡手段として、独自の“ネットワーク”が形成されていたのだ。

パーソナル無線は、1990年代初頭の峠や首都高を舞台としたアンダーグラウンドな走り屋文化において、実用性以上に“連帯感”の象徴であった。といっても、運用目的はもっぱら「警察きとるで!」という情報共有であり、緊急連絡や会話を楽しむといった本来の機能は副次的なものに過ぎなかった。だが、そのアンテナの存在が、当時の車両を“戦闘機”へと変貌させたことは否定できない。

シリーズ第4作『首都高速トライアル4』では、物語に一層の感傷が加わる。主人公の弟が難病で余命いくばくもないという設定である。弟は言う。「兄ちゃん、土屋圭市とGT-Rで走るとこ、見たい」。それは、走り屋たちにとっては夢のような瞬間であり、病床の弟にとっては最後の希望であった。

兄は土屋に直談判、土屋はGT-Rに乗り、サーキットを共に走ってくれる。その展開自体がすでにフィクションとしての到達点なのだが、本作がさらに“伝説”となった要因は他にもある。

主人公は、弟の夢を叶えるため、愛車シルビアと父親の車を無断で売却し、真っ赤なGT-Rを購入するのである。その帰宅後、父親に問い詰められ、ビンタを食らう。演技というより“実写ドキュメント”のような生々しさがそこにはあった。作中最大の見せ場と言っていい。

そして最後に触れねばならないのが、幻の第6作『首都高速トライアルMAX』である。この作品は、シリーズ唯一の“国内発売中止”となった曰く付きの一編である。理由は、「違法走行シーンが含まれているため」。それまでの全作品が違法走行を題材にしていながら、なぜこの1作だけが槍玉に挙げられたのか。今となっては製作サイドと映倫との間で何らかの齟齬があったとしか推測できない。

すべてが過剰だったあの時代。車、スピード、情熱、そして映像表現もまた“限界”に挑んでいた。その象徴として、『首都高速トライアル』シリーズは今もなお、一部のファンの間で語り継がれているのである。